私の研究スタイル ‐論文への思い‐

居田克巳

 2023年3月、勤続37年にて定年を迎えることになりました。これまでお力添えをいただいた研究所に携わる方々に、厚くお礼申し上げます。
 赴任前の2年間は、東京大学大学院博士課程在学中に遠山潤志先生から海外留学を打診され、プリンストンプラズマ物理研究所(PPPL)に客員研究員として在籍しました。そこでは、岡林典男先生、レイモンド・フォンク先生に師事してプラズマ分光を主に学び、不純物輸送に関する博士論文をまとめました。

 ジャーナルに発表した論文は100編程ですが、中から印象深いものを五つ紹介します。それらは、①スネークの発見(1986年)、②Hモードの電場(1990年:被引用数約400:自己ベスト)、③プラズマの自発回転(1995年:仁科記念賞受賞)、④プラズマ流の堰き止め(2015年:初の論文プレスリリース)、⑤無衝突エネルギー移送(2022年:初の学際研究)です。
 ①は翌年に似た内容が別のグループからPhys. Rev. Lett.に発表され、こちらの方が有名になり被引用数で数十倍の差がつけられました。私の論文では「スネーク」というネーミングを付けなかったことも敗因の一つですが、発表した雑誌のインパクトファクターの違いが被引用数の差に現れたのだと思います。この時の「悔しさ」が、高インパクトファクターの雑誌に挑戦する研究スタイルの原点となりました。
 ②と③の研究は、原子力開発研究機構(現 量子科学技術研究開発機構(QST))との共同研究の成果で、何度も東海村まで通ったことが懐かしく思い出されます。②は1993年に仁科記念賞を受賞された伊藤公孝・早苗先生の理論モデルの実験的検証で、理論と実験の対応が明確なので被引用数が増えました。③は理論がなかったためか発表後10年間の被引用数は20程度でしたが、後に理論モデルが提唱されて被引用数が100を超えるようになり、2011年の藤沢彰英・居田の仁科記念賞受賞に結びつきました。論文の価値はすぐに評価されるとは限らないようです。理論と実験は研究の両輪と言われますが、片輪でも走り続けることが大事だと思いました。
 ④はNature Communicationsに発表したものです。当時の研究所のプレスリリースの多くはプロジェクト成果報告でしたが、初めて論文発表によるものとなりました。現在は記者会見専用の部屋も完備され、毎月のように論文発表のプレスリリースが行われて隔世の感があります。プラズマ流の堰き止めは、ヤフーニュースでも取り上げられましたが、面白いコメントがありました。「(マイコ)プラズマの咳を止める方法の発見かと思ったら、プラズマの流れが止まる話でがっかりした」と書かれていたのです。医学研究に対する関心と物理のそれとでは、注目度に大きな違いがあると感じました。
 ⑤は核融合プラズマの「専門家」と思われる査読者からの評価が低く、7回も掲載拒否されました(自己ワースト)。結局、投稿先を変えて、出版にこぎつけました。これは、審査する研究者コミュニティーによっても、論文の評価が大きく異なるという例で、まさに捨てるかみ(paper)あれば拾うかみありです。

 国際共同研究は積極的に行いました。特に研究所で開発した高性能分光器を他機関に移設し、その装置を中心に共同研究を進めるというスタイルでした。このような物を持ち込んでの共同研究は、今では当たり前になりましたが、私が始めた頃は珍しかったように思います。分光器は現在、韓国、中国、ドイツの研究機関に合わせて10台近く設置されています。

 また2011年にアジア太平洋輸送作業会合(APTWG)の国際会議を立ち上げて、毎年、日本―韓国―中国の持ち回りで乱流輸送に関する会議を開催してきました。この会議のバンケットでは、私が挨拶がわりに英語落語を行うことが慣例になり、最後の演題は「猫の皿」でした。これは、道具屋が名品の皿でエサを食べる猫を見て、皿欲しさに猫を買おうとしたところ、飼い主の方が一枚上手だったという話です。骨董品の「専門家」を自負する道具屋を負かした賢さに、学ぶものがあります。

 定年後は、地上のプラズマから宇宙のプラズマに手を広げる予定です。時代と共に、研究スタイルもオーロラのように変化して行くのが必至でしょう。最後に、私の論文・共同研究・国際会議といった研究活動を支えてくれた多くの仲間に、心より感謝申し上げます。

(大型ヘリカル装置計画 研究総主幹/ヘリカル研究部 部長/高温プラズマ物理研究系 研究主幹/教授)